WAVE(原題)
sucram
『なかみ さんにフォローされました』
知らないアイコン。知らない名前。
楠春斗は暗い部屋の中、スマホの画面を見ていた。0時過ぎ、全国の高校生のどれだけが同じようにSNSで時間を無駄にしているか考えると、いつも不思議な気分になるのだった。そこに届いた通知、春斗は疑念を抱かざるを得なかった。
わざわざフォローリクエストをしてくるなんて、怪しいアカウントに決まっている。
悲しいことに、春斗には17歳にして培ってきたTwitterでの経験則があった。
青い空の写真なんかをアイコンにして、いかにもって感じじゃないか。
何事も斜に構えて見てしまうことが春斗の悪い癖であることは自分でも理解していたが、やめる気にはなれなかった。
実際にプロフィールまで飛んでみるが、プロフィールには何も書かれていなかった。春斗と同じく、鍵のかかったアカウント。ツイートなどを見るには、こちらも同じようにフォローリクエストをするしかないということだ。
そして、FF比が1に近い、つまりフォローしてる人数と同じくらいフォロワーがいるということはマトモなアカウントである可能性が残っているということも、春斗の経験則が教えてくれていた。
突如として心理戦を仕掛けられているような気分になったが、少し考えた後にリクエストを承認すると、『フォローバックする』をタップした。その間、約2秒。
のちのち、あの時の自分ナイスだぞ、と思えるかもしれない。ブロックするのはフォロリクを送ってからでも遅くないわけだし。
もしかしたら――そんな想いで小さな可能性に賭けてみるのが、春斗は好きだった。
次に『なかみ』のアカウントのことを思い出したのは、翌日の同じ時間。ベッドに寝そべってからだった。
そういえば昨日、眠気に苛まれるなかで変なアカウントからの通知が来て……フォロバまでしたんだっけ。
アカウントページまでアクセスすると、見られるようになっていた。
ベッドから起きあがって壁にもたれて体育座りをするような姿勢になる。こうすると、少し眠気が緩和されるような気がするのだった。
ツイートの頻度は……少ないな。リツイートなどもなく、ひとりごとを溜めてるっていう感じだ。
スマホに指を滑らせながらタイムラインを遡っていく。
その中で、目を引く投稿があった。文章はない。一枚のイラストだけの投稿。
夜明けの湖。羽ばたく鳥といい、霧でぼやける奥の森といい、まるで絵本のワンシーンみたいなタッチだ。気づけばメディア欄からイラストだけを夢中で漁っていた。そのすべてに、ただただ風景だけが描かれている。まるで、書き手によって人間が意図的に消されているかのような絵たち。
何枚も見ていくうちに、この絵から感じるものに既視感を覚えた。そして、その描き手にも。
小学校三年生の頃、転校していった。東宮波香(とうみやなみか)。
『いつも来るの早いけど、何かいてるの?』
春斗は朝早くの静かな教室での読書が好きという物好きな小学生だった。そんな変わり者はたいていクラスに春斗だけで、小さな優越感に浸っていたのかもしれない。しかし、クラス替えのあった三年生の春、桜散る登校路を行きたどり着いた教室には、一人の女の子がいたのだった。
一番後ろの席に座って机で何かを書いている女子。それが波香だった。
挨拶はしたほうが印象はいいかな? 朝だから声のボリュームがわからないな。っていうかあの子の名前なんだっけ。どうしよう……
三年生の頭脳をフル回転させて色々考えたものの、この時間帯の教室に人がいるという今までにない非常事態に、春斗はその希薄な人生経験では対応することができずだんまりを決め込んでしまったのだった。
教室の扉の前で立ち尽くす春斗があまりにも不審だったのか、ちらっと教室の外に視線を送る波香だったが、目が合うとすぐに机に目線を落とした。それは春斗にいち早い決断を迫るには十分だった。
ランドセルを置きおそるおそる席につくや否や、ランドセルから何も取り出していないこちに気づいた。とにかく、その日は読書どころではなかった。
それから毎日、早朝の教室には二人しかいない時間が続いたのだった。その中で、わかったことがある。意外とクラスの中ではよく笑う明るいタイプであることだ。初対面での印象が払拭されると、すぐに春斗にとって脅威的な存在ではないという認識に変わった。それどころか、波香のことが気になりはじめていた。
カタ……カタ……
色鉛筆がケースに置かれる音が教室に響く。背中でそれを聴きながら今日は何を描いてるんだろう、なんて考えながら好きな本を読み進めるのが春斗の日課になった。
わざとランドセルに荷物を忘れて、取りにいくフリをして後ろから覗いてみたりする、ということが続いた何回目か。
「この絵さ、どう思う?」
最初、誰に話しかけているのかわからなかった。波香は前を向いたままだったから。
「え? あ……上手だと思うよ」
「ほんと!?」
とっさに出た言葉は気持ちは本物だった。そんなありきたりな言葉にも嬉しそうな顔をする波香に、春斗はクラスでの波香の『顔』を見たのだった。
「今まで描いたの、見る?」
「見る、見るよ」
波香は自分の描いた絵のこだわりポイントをあれこれ言いながら次々とページをめくっていった。その絵たちはどれも、春斗の好きな本の雰囲気に似ていた。ファンタジーに出てきそうな、異国感のある風景。
「私ね、人がいない絵の方が好きなんだ」
そう言われて初めて気づいたのだが、波香の絵には人間が描かれていなかった。石レンガ造りの街並みに人っ子一人いないというのは不自然だ。
「描いてあるのは、行ったことある場所?」
波香が首を横に振ると、その肩にかかるくらいの黒髪がさらさらと揺れる。
「ぜんぶ私の想像。でもこんな場所あったら素敵だなって思って描いてるんだ。だって、世界って広いんだよ?」
その、見たことのない景色に思いを馳せるかっこよさに春斗は憧れた。それが『大人びている』ということだと気づくには春斗はまだ幼かった。
二人だけの空間は終わりを告げ、他のクラスメイト達がばらばらと登校し始めてきた。
「春斗くんさ、今描いてるのが完成したら、また見てよ」
そう言い残し、ぱたんと落書き帳を閉じると、波香は今しがた教室に入ってきたクラスの女子グループの輪に話しかけにいった。
初めて名前を呼ばれたことに春斗が気づいたのは、自分の机に戻ってからだった。
あの絵。東宮波香のもので間違いない。おぼろげな記憶をたどって確信に変わった。
半ば反射的に文章を打つ。
『東宮波香さんですか? ○○小学校で一緒だった楠春斗です。覚えてますか?』
覚えていたらなんだというのだろう。
普段の春斗であればそう考えていたかもしれないが、深夜の変な気に乗せられた春斗が冷静になることはなく、メッセージはそのまま送信された。
『東宮波香です。ひさしぶり。春斗くんのことはちゃんと覚えています。そう思ってフォローしました!』
予想外にも数分で返ってきたメッセージ。最後には満面の笑みの絵文字が添えられている。
『まだ絵描いてるんだね。しかもすごく上手くなってる』
『本当? そう言ってもらえるとすごく嬉しい! 実は今もイラスト描いてたらこんな時間になっちゃってた笑』
『明日も学校なのに笑』
『春斗くんも同じでしょ』
『イラスト出来たら、またアップする? 楽しみにしとく』
最後に会ってから五年以上たってるし、こんなもんだよな。
絵文字を織り交ぜながらの会話に春斗は言葉にできない息苦しさを感じる。
翌日の昼休み、春斗はスマホの画面で昨日のやり取りを振り返っていた。文面でのチャットは、後でどんなことを言ったのか確認できるから反省してしまう。
「まーたTwitterですか」
送信する前に書いたものを確認する習慣をつけた方がいいよな。文が短いとそっけなく見える。
「誰かとのDMだ」
しかもこの終わり方。会話ってのは一度切るとまた始めるのが大変だっていうのに。というか、それってエアコンと同じだな。
妙な気づきを得て感心する春斗が何を考えているかつゆ知らず、一人の女子が根気強く話しかけ続けた三回目。
「えーと、なになに……」
何かとびくびくしながら生きている人間というのは、背後を取られることに敏感なもので、春斗はスマホを覗くような視線で一気に現実世界に引き戻された。
「他人のTwitter見て楽しいか!」
「今の顔見れたから、楽しいかな」
「え、どんな顔してた? 怖いんだけど」
「教えなーい」
ははっ、とからかうように笑う菅原朱(すがわらあや)。昨年から春斗とクラスが一緒の朱に対して、春斗は縁というものを感じているのだった。
変なやつ。
それが春斗の朱に対する印象だった。
「そういえば、三津山がたまには部活に顔出せって言ってたよ」
朱はよく喋る。春斗が黙っていても話題に困ったことはなかったし、朱と話すたびにこれがコミュ力というやつなのかと実感させられるのだった。
こう言ってはなんだが、結構話すわりにクラスの中では地味なポジションに収まっている方だと思う。
実際、春斗は自分以外の人とでももっと話せばいいのに、と言ってみたことがある。
『合う人じゃないと、こうは話せないんだよね』
合うって何が、と尋ねるとドヤ顔で答えてきたのを覚えている。
『波調!』
「ま、中間テストも近いことだし、またお願いしますね〜。お勉強会」
そう言うと、手をひらひらさせながらどこかへ行ってしまった。
本当に、変なやつだ。
ただ、高校から知り合った友達とここまで仲良くなるなんて、ましてや異性になるなんて春斗は微塵も思っていなかった。むしろ、距離感の詰め方が異次元級の変人でないと仲良くなれないのかもしれない。他にもいろいろ要因はあるとは思うが、何にしても気が合うことは確かだった。
教室での会話だけじゃ深い関係性は築けないし、卒業したら互いの近況を報告するだけの連絡が鬱陶しくなるというのは中学までで経験済みだった。そんな感情から無意識に他人との間に壁を作ってしまうのだった。
県内でそこそこの位置を死守し続けている進学校に入学した生徒たち、という春斗の色眼鏡から見える教室の景色はつまらなく退屈なものだった。
たかが一時間弱の昼休みでクラスの雰囲気が変わるわけもなく、午後の授業も平凡に進んだ。
『雨だね~』
世界史の授業を受けている最中にきた波香からのメッセージ。
五月にしては珍しく、午後からの天気は雨だった。春斗が座る窓際の席では、雨粒がガラス窓を打ち付ける音がよく聞こえる。
『たまに考えるんだけど、水って描けるものだと思う?』
授業中に来た通知をポケットの中で察知して中身を見ようか葛藤して数十秒。好奇心の前にあっさりと敗北した自分を恥ずかしく思いながらも、質問に対する返事を考えてみる。
人が唐突な質問をしてきた時、八割がた相手にこう答えてほしい、という仮想の回答があるはず。それを提示してあげるのが相手にとって心地いいコミュニケーションになるはず。
思考の小さなかけらを一つずつ丁寧に脳内で組み上げていく。
送信する前に一度見直して確認する。授業中という余裕のない状況でも、先ほどの教訓を忘れず反芻しながらこう打った。
『見た人が水だって思えるなら描けるってことになるんじゃないかな』
いや待てよ。
送信ボタンに指先を置いたところで春斗は止まった。
はたしてこんなに早く返信して引かれたりしないだろうか。そもそも打った直後に自分の文章を見直すと修正案が思いつかないし、なかなかキツいものがある。
突如として出現した猜疑心と臆病に阻まれた春斗がやっとのことで返信をしたのは、放課後の図書室だった。いつの間にか雨はやみ、空いた窓からは運動部の元気な声がする。外から差し込む雨上がりの日差しはやけに暑く感じられた。
図書室における読書用の机というものは時代に取り残された遺物のようなもので、春斗以外に利用者はいないのが常だった。入口から見て一番奥に置かれたその机で本を読んだり、勉強したり、好きなことをするのが放課後の過ごし方だった。一見頑固そうな年老いた司書教諭もそれに気づいてはいたが、今時高校の図書室に足繫く通うという物好きのことを悪くは思っていなかった。
送信ボタンを押してから一分足らず、先ほどの春斗の猜疑心を嘲るかのような速度でスマホは鳴った。
静かな図書室に響き渡ったスマホの通知音。さすがに怒られるかな、と不安になった春斗はスマホをマナーモードに設定した。
『この写真さ、春斗くんが撮ったの?』
すぐに春斗のツイートが波香から共有された。葉っぱの上の大きな雨粒の接写、あまりにも綺麗だったので撮ったものだ。
そうだよ、とすぐに返信を打つと、返信がすぐに来た。
『なにで撮ったの、スマホじゃないよね?』
『一眼だよ』
『やっぱり! すごくきれいだったから』
自分の写真か一眼のことなのかはわからなかったが、とにかく褒められて春斗は心がくすぐったくなるのを感じた。
写真は春斗が中学校に入ってから始めた趣味だった。
長きにわたる母親との交渉の末に買ってもらった一眼レフを持って、学校帰りにわき道へ逸れて、思うままに好きな物を撮る。その時の写真を晴斗はたまにSNSに上げていたのだった。
実は、写真の前に絵を描いてみようと奮闘した時期が一年ほどあったのだが、その時期のことは春斗の頭の中からさっぱり忘れられていたのだった。
『水は透明だから、周りの景色を反射して存在を示してる。でも、それを人が表現するのってすごく難しいなって思うんだよね』
美術に疎い自分が返信するのも野暮に感じて、そのままにしていると新しい通知がスマホを通して机を震わせる。
『そんなこと話してたらまた雨が降ってきてしまいました』
その文をバナー通知で読んだ春斗は窓の向こうを一瞥したが、空は相変わらず燦々と晴れていた。
どんなに離れていても見ている空はいつも同じなんてセリフがあるけど、そんなことないじゃないか。
当てつけのように暑く眩しい日差しから逃げるように薄暗い書架の方に向かった春斗は、いつものように今日借りていく本を探すのだった。
数分後、貸出カウンターで目当ての本を借りた春斗が外を見ると、雨が再び降り始めていることに気づいたのだった。
小説の冒頭を読んで展開を予想するのが春斗は好きだった。そこまでに手に入る情報からイメージしうる最大限まで細かく想像する。そうした方が物語により没入できる気がするのだった。
ただ、その日ばかりは借りて帰ったファンタジー小説のイメージがことごとく波香のイラストの絵柄で想像されて気が散ってしまうのだった。
ぽた……ぽた……
さっきまで気にならなかった外の雨音も次第に大きくなる気がして、春斗は読書をあきらめて本をベッドの横にそっと置いた。
波香のイラストのリプライにはたくさんの絵を褒める言葉があった。ただ、その中の誰一人として春斗の知り合いはいなかった。
『今はデザイン科のある高校に通ってるんだ』
ある日の会話。
『将来はイラストレーターとか?』
『自分で描いたイラストを使うこともあるけど、もう絵は趣味って感じかな』
『そうなんだ』
『学校にいると、やっぱ上には上がいるんだなー、って思う。イラストメインでやらなくて良かったって思ったりするし笑』
『波香より絵が上手い人がいるんだ。今は学校で何をしてるの?』
『もののデザインとか、部屋のデザインとか!』
『そういうの、なんかかっこいいと思う』
『そう? ありがとう笑』
不思議そうにしつつもまんざらでもないような波香の反応と、なんともない日常会話に充足感を抱きながら、スマホを枕元に置いた。
そのまま気づかないうちに眠りについていたようで、目を覚ましたのは明け方、時計は六時を指していた。無意識にスマホを触ると熱を持っている。どうやら、画面をつけっぱなしにして寝てしまっていたようだった。
布団からなるべく身体が出ないよう腕をせいいっぱい伸ばしてスマホを充電コードに指すと、再び快適な眠りにつくために目を閉じる。いや、そもそも目を開けていなかったかもしれない。
だからだろうか。夜中に届いたそのメッセージに気づいたのは、学校に着いてからだった。
『今度、高校の文化祭があるんだけど春斗くん来る?』
家から電車で三十分ほど、郊外のそこそこ大きな駅から徒歩五分、とそこそこ立地の良い場所にある波香の高校は、所詮は高校の文化祭だろうという春斗の予想以上に賑わいを見せていた。
煌びやかに装飾された正門をくぐり抜けると、校庭に作られたメインストリートには屋台がずらりと立ち並んでいる。
知り合いがいない文化祭なんて来たことないな。
知り合い云々にかかわらず、そもそも文化祭というものに深い関わりを持ったことがなかったが、なぜか一歩引いた姿勢で周りを観察しながら人の間を縫って校舎にたどりつく。
下駄箱を抜けてすぐにあるスペースは二階まで吹き抜けになっている。中庭に面した壁は大きなガラス張りで、差し込む自然光が空間全体を明るくしている。人工物と自然の調和のとれた屋内は、緻密にデザインされた世界であるように思えた。
人の流れから少し外れた場所で立ち止まると、正門で配られたパンフレットを見る。
クラスごとに作品の展示を行なっていて、波香の教室は2年C組だった。
教室に入ると、制服の生徒たちが挨拶をしてくれる。波香の現クラスメイトだと思うと、なんだか不思議な感じがした。
同い年なはずなのに、大人っぽさを感じる生徒たちに会釈をしてゆっくりと作品を見て回る。似たような展示をどのクラスもやっているからか、作品を見ている人間は教室に春斗しかいなかった。
「こんにちはー、誰かの兄弟さんですか?」
春斗が一人で作品を眺めていると、親切心からか一人の男子生徒が声をかけてきた。
「あ、違います」
とっさに出た声は自分でも驚くほど小さくて、話しかけてくれた男子生徒は聞き取れずに困惑している様子だった。
「友達です……別にすごい仲がいいわけじゃないですけど」
慌てて付け足した言葉は相手に届いたようで、そうなんですねという相槌を打ちながら彼は展示されてる作品について色々と話してくれた。
「友達の作品、ありました? あんまり喋ってるとサボるなって女子に叱られちゃうんで。ここら辺で失礼します。楽しんで!」
一通り説明し終わると、彼は教室の隅にある仕切られたスペースの中へ戻っていった。
彼が言うには、展示のコンセプトは『深海』だそうで、黒を基調としたものが多かった。明るい教室に散らばる作品たちは室内に影を落としているようで、その対照性に春斗は特別感を感じる。
春斗のお目当てのもの――波香の作品は窓際の隅に飾られていた。
金属でできた木。枝先には紺や黒のビーズがついている。『浮流樹』というタイトルが書かれ、その下には名前が書かれている。
小学生のころはひらがなでしか見なかった『東宮波香』の文字列にどきっとしてしまう。
金属製の線を何本かまとめて形作られた枝が、すぐにバランスを失ってしまうほど繊細なつくりをしているのは一目で明らかだった。
思わず息を止めてしまうような時間がしばらく経った後、春斗は教室をあとにした。
ありがとうございましたー、という男子生徒の声だけが仕切り越しに春斗の耳に届いたのだった。
『いま校舎の入り口の近くにいるんだけど、春斗くんはどこにいるー?』
パンフレットで気になった展示も一通り回り終えて、中庭にあるベンチで休憩をしていた時。数分前に届いたメッセージに気づく。
校舎の入り口と言うと、下駄箱を抜ければすぐそこの場所だ。
『紺のマスクつけてるのが私です、見つけたら声かけてもらってもいい?笑』
今まで別世界にいると感じていた波香が、近くにいる。
そう考えるだけで鼓動が早くなるのを感じ、腰が急激に重くなった。
メッセージを未読にしたまま一分が経過する。
渇いた喉を潤すために開けようとしたペットボトルのキャップが手汗で滑る。
何のためにここまで来たと思ってるんだ。自らを鼓舞しようとした言葉に胸をギュッと絞めつけられる。
気づくと春斗は重い腰を上げて下駄箱を抜けて校舎の入り口にいた。
「楠春斗くん……ですか?」
春斗の背後からその声はした。聞き覚えがあるような懐かしい声だった。
「あ、私の方から話しかけちゃった」
紺のマスクに制服を着たその格好は文化祭ではよく見かけられるものだったが、その節々から無意識的に感じ取るものすべてが、彼女が東宮波香であることを証明していた。
特にその大きな目は印象的で、昔から変わっていないと春斗は感じるのだった。
目を合わせていると吸い込まれてしまいそうで、春斗の視線は次々と校舎から出ていく人々を無意識に追う。
「ひさしぶり、何年ぶりかな」
「7年とか? ひさしぶりすぎるよね」
とっさに言葉が出てこなくて苦し紛れに放った質問にも、気にならない範囲で大きく反応してくれる波香。
今まで緊張で張り詰めていた春斗の心が、徐々に弛んでいく。それと同時に、周囲のざわざわという音が次第に大きくなる。
「文化祭はもうだいたい回れた?」
「うん、波香の作品も見てきたよ。波香らしくて、すごい良かった」
小学生の作文並みの感想しか出てこない自分の語彙力を自嘲気味に軽く笑う。
いや、本当は少し照れてる波香を見て思わず顔がほころんだだけだった。
「こんなこと言っちゃだめだけどさ」
何もない校庭の方を見つめて波香が言う。その横顔に春斗はようやく波香の顔をまともに見ることができた。
「せっかく展示してても誰かに見てもらってるっていう実感はないから、そうやって感想を言ってもらうだけ嬉しいな」
うつむいた表情を見て、確かに思い出した。小学校時代、春斗が言った何気ない言葉一つ一つを噛みしめるように嬉しがっていた波香。そんなまっすぐで純粋な波香はあの頃のままだった。
そうだ、と何かを思い出したように春斗の方を振り返ると、春斗の目線は半自動的に逸らされてしまう。目を見て喋れるようになるには、まだ当分時間がかかりそうだった。
「これ、作品の素材で余ったから作ったんだけど、あげる。あんまり男の子っぽくないかもだけど」
そう言って波香が取り出したのは時計をモチーフにしたキーホルダーだった。文字盤に埋め込まれたビーズが樹のオブジェに用いられていたものと同じものであることに春斗は気づいた。
「ありがとう、大切にする」
神妙な面持ちで封筒型の袋に入ったそれを受け取るとそっとバッグの中にしまった。
日が傾き、文化祭も終わりが近づく頃合い。
別れ際の一言に、波香は言ったのだった。
「春斗くんさえよければなんだけどさ、また今度会おうよ」
今度って、いつなんだろうな。
帰りの電車の中で一人、喪失感と孤独感に見舞われる。
ただ、バッグを小さく開けて中に入っているキーホルダーを覗き込むだけで、そんな気持ちも和らぐ気がするのだった。