
私の死体が二つ
ウワバミ
静寂の中、暗闇が重たくのしかかっていた。
彼の家のクローゼットの奥に、死体となった私が隠されている。動くこともできないし声を出すこともできない。私は死んでいるはずなのに、なぜか感情だけが生きていて、流れていく時間とは無関係に、ただ私の意識だけがそこに存在していた。
最初に気がついたのは、彼のシャツに染み付いた香水の匂いだった。彼からいつも漂っている、ふわふわとしたあの匂い。
周囲は静寂に包まれ、眼前には鈍い闇が広がっていた。
ここはどこだろう。いつからここにいるのだろうか。ぼんやりとした頭で思考しても、霧の中をさまようように考えは定まらなかった。それでも、一つの恐ろしい現実だけは鮮明に意識を貫いていた。
私は既に死んでいる。
硬直した顎の感覚。呼吸も鼓動も感じない。それらの事実が妙な説得力を伴って、私に現実を突きつけていた。
不意に足音が近づいてくる。彼の足音だとすぐに分かった。
扉が開く。そこには彼がいる。凍てつくような無表情で、その顔からは一切の感情が読み取れない。
扉の隙間から彼のベッドが見えた。見覚えのある彼の寝室。それならばここはおそらく寝室のクローゼットの中。
彼はクローゼットからシャツを取り出した。その拍子にシャツの袖が私の頬をかすめ、すこしヒヤリとした感触があった。
彼はそんなことは気にも留めずに、シャツを持ったまま寝室を出て行き、しばらくすると玄関の扉が閉まる音がした。仕事に出かけたのだろう。
クローゼットの戸は半開きになっている。その隙間から、私の開ききった瞳孔は彼の部屋を映し続けていた。白とグレーのインテリアで整えられた室内は無機質な静けさを抱えている。ベッドの他には多少の家具と葉先の乾いた観葉植物しかない。簡素な部屋だけれど、彼の物静かな性格を表しているようで私は好きだった。
そんな洗練された空間を乱すように、ベッドサイドに淡いピンクのヘアゴムが置かれている。あれは私のものだ。昨晩、私は確かにあのベッドの上でヘアゴムを外した。その隣には彼がいる。明かりはベッド脇の淡い暖色の間接照明のみで、室内はぼんやりと薄暗かった。
彼の存在を確かめるように、その曖昧な輪郭に触れてみる。彼と私の体温が交ざり合う感覚。そのまま、二人の息づかいがゆっくりと重なっていく。彼と心が真に通じあったと思えた。そんな幸せな夜だった。
でも、それは何の前触れもなく起こった。
彼の細い指が私の首に絡みつき、徐々に首元に食い込む。息ができない。とたんに暗転する世界。何が起こっているか分からなかった。ただ生にしがみつくように必死にもがいた。けれど、徐々に意識が私から離れていくのを感じた。冷たい絶望が私の心に広がっていった。
私は彼に殺された。泣きたかったけれど、この壊れた肉体ではそれすら敵わないのだと悟った。かろうじて、視力や聴力の感覚は残っているだけで、手足などの意識はとうにな。今の私には、定点カメラのように彼の部屋を見つめることしか許されていないのだ。
雨が降っているらしい。ときおり強風で窓がガタガタと揺れた。
私が殺されてから五日ほどが経過していた。彼が相変わらず普段通りに生活しているのを、クローゼットの扉越しに感じていた。
私は今、行方不明となっているのだろうか。就職を機に実家を出た私にとって、この辺りでの友人はあまりいないし、彼とは最近付き合い始めたということもあって、まだ誰にも彼のことを伝えていなかった。だから、私の死体が発見されるまでかなりの時間を要するのかもしれない。そんなことを考えていた。
『続いてのニュースです』
朝のニュースがリビングの方から聞こえてくる。
『昨日、山中で女性の遺体が発見されました。警察の捜査によると、一週間ほど前から行方不明となっている○○○○さんの遺体とみて——』
私は息を呑んだ。いや、正確にはもう息はしていないのだが、それくらいの衝撃だった。ニュースで読み上げられた名前は、私の名前だった。同姓同名の可能性もあるが、その後に読み上げられた情報の全てが私に符号していた。
山中で私の死体が発見された。でも、おかしい。私の死体はここにある。彼の家の寝室のクローゼットの中。そこが私の死体の所在地。それならば、山中で発見された遺体は誰のものなのか。彼が別の人の死体を私に仕立てて埋めたのだろうか。捜査の攪乱。計画的犯行。混乱が押し寄せる。様々の可能性が頭をよぎっては消えていく。私は本当にここにいるのだろうか。そんな問いさえも頭に浮かんだ。あの死体が本物で、私は偽物。彼への思いが強いあまりに意識だけがとどまってしまった地縛霊のようなもの。でも違う、確かに私はここにいる。自分の目を通して彼のことを見たし、自分の耳を通してテレビの音を聞いた。その確信があった。それならば、なぜ私の死体が二つあるのか。
いつのまにか、テレビの音が消えていた。彼の足音が聞こえる。少し苛立ちを含んでいるような調子だった。
今日もまたクローゼットが開く。そこには当然、彼が立っている。朝の日差しが逆光となって表情が読み取れない。ただ数秒立ち止まって私を見つめた後に、すぐに戸を閉めて部屋を出て行ってしまう。私の死体の存在を確かめてから仕事に出かけるのが、最近の彼の日課となっていた。
私が死んでから、彼という人間が全く分からなくなってしまった。彼とは心が通じ合っていると思っていたのに。彼との日々を思い返しながらそう思った。
「私のどこが好きなの?」
彼にそう聞くと、返事は必ず決まっていた。
「顔」
彼は短くそう答える。
「君の顔はとても綺麗だと思うよ」
そういって、彼の手が優しく私の頬に触れてくる。本当は、彼氏想いな性格とか、この日のために選んできたワンピースとかを褒めて欲しかったけど、顔を褒められて悪い気はしなかった。満面の笑みを浮かべると、彼も静かに笑い返してくれた。私は彼のことを愛していたし、彼もまた同じはずだった。それなのに、なぜ彼は私を殺したのか、私には全く分からない。
さらに三日ほど経過した。私はその間、山中で発見された私の死体について考え続けていた。彼は私の二つ目の死体が発見されてからテレビをつけなくなった。だから、あれから進展があったのか私には分からない。やはり、あの死体は別の人のものだったのかもしれない。
——ピンポーン。
唐突に玄関のチャイムが鳴った。彼が足早に玄関に向かう音が聞こえた。何かがおかしいと、私は直感でそう感じた。
「おじゃましまーす」
玄関から聞こえたのは若い女性の声。
「入って。こっち片付いてるから」
彼はそう言って彼女を家に招き入れた。リビングの方で、二人の会話が聞こえてくる。クローゼットの扉越しに二人の親密な雰囲気が感じられた。
息が詰まる思いがした。彼は浮気していたんだ。だから、邪魔な私を殺してこんなところに隠したんだ。叫びたかった。それが叶わないことを知りながら、どうすることもできなかった。ただひたすらに、悪意に満ちたこの時間に耐え続けるしかなかった。
でも、二人の会話がある話題に移ったところで、私は正気を取り戻した。
「最近、この近くの山林で死体が発見される事件あったよね? 死体で見つかった女の子、私と同じくらいの年齢だったからすごい怖いんだよね。しかも、犯人まだ見つかってないんでしょ?」
それはおそらく私の死体についての話だった。私を殺した彼がこのニュースをどう思っているのか気になっていたが、彼は曖昧な返事を返しただけのようだった。
「えっ、知らないの? ほら、最近ずっとこのニュースやってるよ」
リビングからテレビの音が聞こえてくる。
『行方不明となっている○○○○さんの遺体が発見された事件について、警察は事件に巻き込まれた可能性があるとして、殺人の疑いで引き続き捜査を進めています』
まだ、事件は大きく進展していないようだ。警察が彼に辿り着くことは困難なのかもしれない。
『なお、遺体の頭部は欠損しており、そちらも合わせて捜索が続けられています』
世界から音が消えたようだった。死体には頭部がない。
思い返してみる。私はこの目を通して彼の部屋を見ていたし、この鼻を通してクローゼットに満ちた彼の香水の匂いを感じていたし、この耳を通して世界を音を聞いていた。これらのことを実現するのに、首から下はいらない。今、私がどんな状態でクローゼットの中にいるのかを理解した。
——ゴンッ。
リビングの方から、何かがぶつかったような鈍い音が響いた。家の中が急に静まりかえった。会話の声もテレビの音も聞こえなくなった。
唐突に足音が近づいてくる。クローゼットが開く。
「今の子は、君の死体の話なんてしなければもう少し後で殺そうと思っていたのに」
そこには彼が立っている。満ち足りた表情で。
「今の子も顔が綺麗な子だったんだ。君と並べたらきっと映えると思うんだ」
そう言って、彼は私の頭部を愛でるように持ち上げた。
「君の顔はとても綺麗だと思うよ」
記憶に中の彼の言葉と重なる。やっと分かった。彼は私の顔が欲しかったんだ。私の頭部だけをクローゼットに隠して、首から下の体はいらないから山に捨ててきたんだ。いや、もしかすると、私の頭部は隠されていたのではなく、飾られていたのかもしれない。綺麗な顔を手に入れるために、彼は恋人を選び、そして殺していたんだ。
再び、クローゼットの戸が閉まる。彼にはこれから、頭部のない死体を捨てに行くという一仕事が待っているのだ。
明日もきっと、彼は私の顔を眺めにくる。そして、これから私の隣には何人の顔が綺麗な女の子が並ぶことになるのだろうか。