勇者
藍音
「勇者様が、来てた!」
弾むような声に、顔を上げた。見ると、頬を上気させた背が低めの男の子が、こちらへ走ってきていた。
「アルク」
私はテーブルを拭く手を止めて、名前を呼ぶ。アルクはヘーゼル色の瞳をきらきらさせて、興奮したように私の肩を掴んだ。
「ねぇ、勇者様が来てたんだ。きらきらしてた。太陽みたいだった! 髪の毛はきらきらの金髪で、目は大空をうつしたみたいに青かった。盟友の神馬アポロンに乗って、とっても立派な武具を着けてた!」
「それにね、」アルクはポケットから輝く白い羽を一枚、取り出した。素晴らしい魔法がかかっていそうな、少し動かすだけで光の粒子が舞う羽。「これ、神馬アポロンの羽! 背中に大きな翼があってね、これで空を飛ぶんだよ。飛ぶ姿は見られなかったけど、勇者様もアポロンも、すっごく綺麗で、すっごくかっこ良かった」
「カナも見たほうがいいよ! いっしょに行こ!」そう言って私を引っ張るアルクの手を、私はそっと外した。
「行けないよ。テーブル拭きの途中だし。アルクも、居酒屋のお手伝いの途中でしょ?」
「いいんだ!」アルクは目を怒らせた。「僕は、居酒屋なんか継がない! 勇者様になる!」
「でも」私は遮った。「私たち、もう十才だよ? せめて、お手伝いくらいはきちんとやらなきゃ」そして、厨房にいるお母さんを見た。うちは、食堂つきの宿屋を営んでいた。お昼過ぎの食堂。お母さんが、疲れた顔をしながら、食器を洗っている。私もそろそろテーブルを拭き終わって、手伝わなければいけない。
「ねぇ、」私はアルクを見た。「もう、大人にならなきゃ」
「っ」アルクは息を詰まらせた。そして、たったひとりの味方に裏切られたような顔をした。
「・・・・・・もう、知らない。僕は大人にならなくてもいい。勇者様になるんだ! そんなこと言ってると、カナは勇者様になれないよ!」
そして、そのまま走って食堂を出ていく。
そんな、何年も前のことを覚えてるんだなぁ。私は小さな頃のアルクとの会話を思い出した。町の広場の花畑で、花冠を作って遊んだとき、「僕、勇者様になる!」「私も!」と言い合ったっけ。
「あのね、」私は小さくなっていくアルクの姿を見つめながら、呟いた。「私はね、女の子だから。・・・・・・どう頑張っても、勇者様にはなれないんだよ」
手元の汚れた布巾が、妙に冷たかった。
***
勇者様が亡くなったのは、それから十年後だった。勇者様は魔物の王様を、すごい魔法とすごい力で討ち取った。でも、魔物のすみかから帰ってくる途中で、長旅の無理が祟って亡くなってしまったらしい。遺体は魔物の出す瘴気で黒ずんでいたそうだ。
「アルク」
私は、居酒屋の裏口を開けた。アルクは、ランプをつけて帳簿を書いていた。
「カナ。宿屋はいいの?」
「うん。一段落ついたから。・・・・・・それより、」
「勇者様のこと?」
アルクは、重ねるように言った。帳簿に目線を落としたまま、少しの間だけ、ペンが止まる。でも、それだけだった。
「勇者様、亡くなったって」
ぽつり、と告げれば、アルクは分かっている、とばかりに頷いた。壁を一枚挟んで、居酒屋の喧噪が聞こえてくる。アルクはもうとっくに、給仕も、調理も、片付けもできるようになっていた。
「まだいる魔物の残党を狩るために、勇者様の後継を探してるって言ってたけど」
「勇者様の後継、か」
アルクは低い声で呟いた。そして、そのまま立ち上がる。アルクの目線は私よりも下。アルクは周りの男の子達よりも、背が低かった。
「僕じゃあ、勇者様にも、勇者様の後継にすらなれないよ」
「居酒屋も継がないといけないし、……剣も満足に振れないし、ね」そう言って、アルクはまた帳簿に向かい合う。おかみさん譲りのヘーゼル色の目が伏せられて、帳簿に書かれた数字を追う。アルクの胸元で、純白の羽が揺れた。
あのとき、持って帰ってきた神馬アポロンの羽。アルクは革紐に通して羽をペンダントにして、ずっと身につけていた。居酒屋の手伝いをやらなくて叱られていたときも、こっそり剣を振る練習をしていたときも、剣も盾も諦めて受け身の練習をしていたときも、何の練習もしなくなって居酒屋で働くようになったときも。
***
「魔物だ! 逃げろ!」
まどろみから目覚めて、辺りを見回した。夜も更けている時間、部屋から出れば、宿屋に泊まっているお客さんが続々と避難していた。
「お母さん、」カウンターで荷物を纏めているお母さんに、駆け寄る。「魔物が出たの?」
「そうみたい」お母さんは険しい顔で頷いた。「ここからは少し離れているところだけれど。あなたも、早く荷物を纏めなさい」「うん」私は頷いて、部屋に戻って、少しのお金と簡素な指輪をポケットに入れた。お父さんが魔物に襲われて亡くなったときの、形見だった。
部屋を出れば、もうお客さん達はみんな避難し終えていた。お母さんは荷物を纏めて、玄関で待っていた。「カナ」お母さんは疲れた顔で私を見た。「逃げるわよ」
「どこに?」私が聞くと、お母さんはため息をついた。「魔物のいない、どこかに」
宿屋を一歩出ると、少し離れたところで黒い瘴気が上がっているのが見えた。魔物がいる証。魔物がこちらに来る前に、逃げなければならない。でも、ある方向を見たときに、背筋がすっと冷えた。居酒屋の上に、黒い瘴気が上がっていた。
「カナ?」急に足を止めた私を、お母さんがじれったそうに振り返る。「何してるの、逃げなきゃ」
私はポケットのお金と指輪をお母さんに押しつけた。「お母さん、これ持ってて」
「どうしたの、何するの!」魔物が寄ってくるかもしれないのに、構わず叫ぶお母さん。「お母さん、」私はできるだけ静かに言った。お母さんの目を見た。お母さんも、私の目を見た。
「お願い」
とても身勝手。でも、お母さんは逃げてほしい。助かってほしい。
お母さんは、へなへなと座り込んだ。「どうして、あなたまでも、私のもとから消えてしまうの」
後ろから、町の人たちが走ってくる。きっと魔物が近づいてきているんだろう。
「リヨンさん、母をお願いしても良いですか」走ってくる人の中に、見知った顔を見つけて声をかける。一つ上の、大柄な靴屋の次男坊。実兄が魔物に殺されるのを見てから、剣を取れなくなった人。
「おう。お前は?」「・・・・・・アルクのところに」「そうか。気ぃつけろよ」リヨンさんは母を軽々と抱きかかえると、そのまま走っていった。「カナ!」母の叫びが耳に残る。でも頭を振って、居酒屋の方向を目指した。
瘴気はその数を増やし、空に幾筋もの黒い線を立ち上らせていた。
***
居酒屋は、半分潰れていた。居酒屋の近くにアルクのいつも履いていた靴が片方落ちていて、そのすぐ側に血の跡があった。それは点々と道を作っている。私は唾を飲み込んで、血痕をたどった。
たくさんの家が崩れていた。花も木も潰され、たくさんの人が逃げ惑っていた。その隙間を縫うようにひたすらに血の跡をたどって。潰れた家と家の隙間、魔物が通れないような瓦礫の間で、こちらに背を向けて、何かを抱きかかえるように倒れているアルクを見つけた。
「アルク!」
私は駆け寄った。いつの間にか靴が片方脱げていて、靴下が赤く染みていった。アルクの頭から血が流れていた。服も血だらけだった。
「どうしたの。どこが一番痛い?」
側に跪いて尋ねれば、アルクはうっすらと目を開けた。「あれ、僕・・・・・・?」そして目を瞬かせた後、彼は私を認識したらしい。
「カナ、っ?」「うん、カナだよ」私は、できるだけ元気に見えるように頷いた。「カナ、この子を、おねがい・・・・・・」アルクが腕を緩めると、小さな子どもの頭が見えた。「うん、分かったよ」私は頷いて、子どもをそっと抱き上げた。三歳くらいの男の子。知らない子。何かに殴られたのか、頭から血が出ていて、ぐったりしていた。息を確認した。息は、していなかった。
「ねぇ、カナ」アルクはヘーゼル色の瞳を私に向けた。「勇者様の後継、来た・・・・・・?」
「来てないよ」私は答えた。「勇者様の後継、まだ、見つかってないよ」
「じゃあ、僕たち、どうすれば、いいの」息も絶え絶えなアルクに、返す言葉が見つからなかった。
「う゛っ」アルクは呻いた。頭の傷が痛むらしい。私は小さな男の子をそっと寝かせて、そして、傷が地面に当たらないように、アルクをゆっくり仰向けにした。
アルクの胸元に、純白の羽があった。
きらきらと、きらきらと輝くそれは、絶望の中に差し込んだ一筋の光のようだった。
「ねぇ、アルク」声をかけても、返事がない。アルクの顔を見る。彼は目をつぶって、ぐったりしたまま動かない。「アルク?」隣に寝かせた男の子とアルクが重なって、ひゅ、と息が詰まった。
アルクの胸元から、ボロボロな革紐を引きちぎった。羽を、両手で包み込む。なぜか、できる気がした。呼べる気がした。神馬アポロンは、勇気に最大限の敬意を払うと聞いたから。だから、勇者についていったと聞いたから。
「どうか、どうかお助けください」
私は、羽を握って祈った。羽は、祈るたび純白の光の粒子をきらきらと零した。「お願いです」魔物の攻撃の音、何かが潰れたり崩れたりする音、町の人たちの悲鳴が、もう、ずっと響いていた。どうか。どうか。
そして、彼の神は降り立った。
『我を呼んだのは、お前か』
厳かな声がした。私は顔を上げた。翼の生えた白馬が、血塗られた地面に降り立った。
かみさまだと思った。身体は一分の隙もない純白で、周りを光の渦が彩っていた。
そこにあるだけで、静寂。そこに御座すだけで、浄。
彼の神は、神馬アポロンは、一目見て状況を把握したようだった。
『よろしい。ならば、羽一枚分の働きくらいはしよう』
そして、アルクと私を、その大きな翼で囲った。すると、アルクの身体が白い、清い光で包まれる。そして、まるでアルクに吸い込まれるように消えた。
穏やかな顔になったアルク。その顔を羽でそっと撫でると、神馬は空へ舞い上がった。きらきらと、羽が、身体が、煌めく。まるで、瘴気だらけの空の中に、新しい太陽が生まれたようだった。
『――――』
神馬の声が、空気を震わせた。
瘴気が晴れていく。晴れていく。魔物たちが消えていく。消えていく。
そして、神馬は再びアルクのもとへ降り立った。
「ありがとう、ございます」
震える声を、神馬は聞き取って、私の方を向いた。清浄な魔力が白く渦を巻いて、周囲に美しく広がっている。
「勇者様でもない、私の、私なんかの願いを聞いてくださって」
神馬は、ゆっくりと瞬いた。ぱちぱち、と白い粒子がはじける。
『人間も、難儀なものだ』
そして、私を見た。きっと十年前から、もしかしたら百年前からも変わらない眼差し。
『人間は、愚かだ。理から外れたことを平気で願い、騙し合い、殺し合う。魔物でも、同族で殺し合ったりはしない。だから、人間になぞ力を貸すものか、と思っていた』
神馬は懐かしそうに目を細める。
『だが、違った。人間の大半は愚かだが、愚かでない者もまた、存在した。勇気ある者、高潔な者、誠実な者。細やかな同族の営みを守ろうとする者。例え命潰えようとも、その魂は美しい』
『そして、我を呼び、我が応えることができるのは、魂が美しい者だけだ。……我も、理を外れた力は、貸せぬがな』
私は、近くに寝かせた男の子を見た。生き返りは、しない。
私の視線を遮るように、神馬が翼を伸ばした。私は、神馬を見つめる。美しくて力強い、白き神の現し身。
『我は、断じよう。命を省みず他の者を助けようとするのは、等しく魂の美しい者である。即ち、お前たちの呼ぶ、勇者であると』
次の瞬間、突風が吹いた。私は思わず顔を隠す。ばさっ、ばさっ、と何かが羽ばたく音がする。風が落ち着いて、顔を上げると、彼の馬はもうどこにもいなかった。
喧噪が戻ってくる。失われたものも、失われなかったものも、等しく現実として。
「う、っ」小さく呻いて、アルクが目を開けた。「アルク!」私は叫んだ。
「いっ、・・・・・・たくない?」アルクはゆっくりと身体を起こした。そして、近くに寝かせた男の子を見る。
「助けられなかった、んだ」アルクは、噛みしめるように言った。「僕が勇者様なら、せめて後継なら、背がもう少し高かったら。助けられたのかな」
「ううん」私は首を振った。「アルクは、もう立派な勇者だよ」
アルクは、不思議そうに私を見る。瘴気はもう消えて、青空が広がっている。太陽は明るく輝き、救えたものも、救えなかったものも、同じように照らしている。
太陽に照らされた青年の首元に、神馬の羽は、もう必要なかった。