口紅の墓標
藍音
オレンジ色の口紅が好きな奴だった。なんでそんな珍妙な色の口紅ばかり買うんだ、もっと普通の赤とかピンクとかは買わないのか、と一度問うてみたことがある。でもあいつは、鮮やかなオレンジ色の唇をよく動かして、イエベだとかブルべだとか俺にはさっぱりわからないお洒落な言葉を並べ立てた。そして最後に、私が美しくなるためだからいいのよ、ときっぱりと言い放った。
あいつとは大学からの付き合いだがよく気が合って、就職してからも頻繁に飲みに行った。あいつは大学生の時からお洒落な雰囲気を醸し出していたが、どこだか、外国人が社長をしている小さなIT系の会社に就職してから、オレンジ色の口紅をつけるようになった。化粧も、大学生の時はよく見なければわからないくらいの薄さだったのが、より鮮やかでキラキラしたものになっていった。派手に見えてもきちんとあいつらしさが残っていて、似合っている。不思議なものだ。飲む酒も、大学生の時はカクテルなんかを見栄張ってちまちま飲んでたのが、俺と一緒にジョッキでビールを飲むようになった。私は私のやりたいように生きるのよ、とどこか解放されたように笑ったあいつが、なんとなく眩しく感じたっけ。
あいつは本当に突拍子もない奴だった。突然俺のアパートにスーツケースをもって現れて、一緒に住みたいと強請ったこともある。受け入れる理由もないが追い出す理由もないので好きにさせていたら、アパートに住み着いて、部屋汚っ、とかごちゃごちゃ言いながら片づけてくれるようにもなった。料理はもっぱら俺の担当だったが。何をどうしたらカレーにプリンを入れることになるのだろうか。そこまで驚きを求めてはいない。
そのうち何かに触発されたのか、LGBTの運動のリーダーまでやり始めて、毎週日曜日に国会議事堂の前でデモをするようになった。ま、やってることは犯罪でもないし、どちらかというと正しいと思ったから、何も手を出さずに放っておいたが、あいつは今まで以上にキラキラし始めて、私これやるために生まれてきたんだと思う、と冗談を言うまでになった。デモの仲間たちとも仲良くなって、彼らと遊びに行くようにもなった。アパートが静かになることが増えて、ちょっと寂しくなったのは秘密にしていた。
でも、あいつは本当にきれいな奴だった。女性っぽく線の細い体つきをしているわけではないが、男性らしく、でも美しい、不思議な魅力のある男だった。毎日筋トレしてプロテインを飲んで、メイクの研究をして新作の服をチェックして、基礎化粧品をぬってパックして、ナイトキャップをかぶって眠る。毎日朝早起きしてスムージーなんか作り出すから、俺まで早起きになってしまった。毎日化粧で眉毛とまつげが生えて、夜になると消えるのが少し面白かった。あいつはいつも朝一番に、洗顔してオレンジ色の口紅をつける。アイメイクも、ファンデーションの塗り方でさえ、あいつの好きなオレンジ色のリップを引き立てるために計算されていた。これが私が言いたいことを言える勇気の源なのよ、と、メイクをすると表情までがらりと変わるあいつは、自信ありげに微笑んでいた。
あいつはどんどんきれいになっていって、変な奴まで魅了するようになってしまったらしい。ストーカーに付きまとわれているかもしれない、でも貧弱な奴ならこぶしで一発よ、と相談なのか宣言なのか分からない話を聞いた三日後の日曜日、あいつはデモ中にナイフで刺されてあっけなく死んだ。アパートでだらだらしながらドラマを見ていた俺は、いつもの時間になっても帰ってこないあいつに早く帰って来いよ、と連絡を入れて、病院につながって初めてあいつの死を知った。ざぁっと血の気が引いたのが、自分でも分かった。…死に顔も、きれいだった。
あいつの葬式には呼ばれなかった。あいつの家族は、普通から少しだけはみ出たあいつを厄介者扱いしていたらしい。俺の部屋からあいつの荷物を引き取りに来た自称父母は、あいつのナイトキャップやメイク道具を汚らわしいものを触るように段ボール箱に放り込んでいた。自称妹も、あんなに気持ち悪い兄ですみませんでした、一緒に暮らそうなんて言われて鳥肌立ちましたよね、とまるで出来の悪い兄の尻拭いをする健気な妹のように俺に頭を下げた。言いたいことは、たくさんあった。でも、あいつが亡くなったと聞いて、まだ呆然としていた俺には、言葉を返すことができなかった。あいつを殺した犯人は、俺が探すまでもなく捕まっていた。動機も詳細な情報も、別に家族ではない俺には教えてはもらえなかったけれど。
後で、どうしてもと頼み込んで葬式の写真を見せてもらった。あいつの家族は今時流行りの家族葬と言い張っていたが、どこからどう見ても極限までかける金を削った体裁だけの葬式だった。あいつの死に化粧はいつもよりずっと不細工で、生前のどこか艶めかしさも感じるようなあいつの魅力が全く無くなっていた。墓の場所も教えてもらえなかった。葬式に参加できなかったから線香だけでもあげたいと請えば、あいつの母から、あいつは自分たちと同じ墓に入っていないと言われた。きっと遺骨は、気持ち悪がって墓に入れずにどこかに捨てたんだろう。どうせ捨てるならくれよ。俺は絶対お前らよりあいつを悼んでいる。
あいつは、私は別にゲイじゃないのよ、と言っていたから、あいつが俺を好きだったのかは分からないし、そもそも俺はあいつを好きだったのか、自分でも分からない。俺に残ったのは、あいつの家族が荷物を回収した時に咄嗟に隠した、オレンジ色の口紅だけだった。口紅だけでも燃やしてあいつに送ってあげようかな、でもあいつが使ってたやつ燃やすのもったいないな。燃やすためだけにあいつのよく使っていたメーカーの口紅を買ってくるなんて俺らしくないセンチメンタルなこともしたが、よく見たら容器が金属だから燃やせなかった。代わりにあいつの一等綺麗な写真を飾って、その前にあいつの口紅を置いた。
あいつが亡くなってLGBTデモのメンバーも悲しんでいるかと思いきや、三日も経たずに復活していた。あいつの肩によく腕を回していた緑髪の男が、今度はリーダーになっていた。きっとあの男が死んでも、次の奴が出てくるんだろう。
あいつはいつも言っていた。確かに、最近の人は差別をしない、というよりも相手に関心を持たない。そのうち世代交代が進んでいけば、今抑圧されている大体の人が暮らしやすい世の中になるんだろう。でも、それではだめなんだ。私たちは、今を生きているんだ。そんなに悠長に待ってはいられない。将来なんて、極論どうでもいいから、今、好きなように生きたいんだ、と。
俺だって生きにくさを感じたことはある。若いからと年上の上司に威張られたりとか。でも、それはあいつらが感じている生きにくさよりはずっとましなものなんだろう。傍観してればそのうち世の中の見方も変わるだろう、と思っていたけれど。
鏡の前に立つ。あいつとは似ても似つかない、平凡でくたびれた男が写っていて、思わず笑ってしまった。そして俺は、俺には全く似合わない新品のオレンジ色の口紅をひいて、あいつがよく使っていたレインボーフラッグを手に取った。